なんとなく。

かなしい、
うれしい、
くやしい、
しあわせな、
なんとなく思うことはおおい。

どうどうこうこうと、説明しなくても、
なんとなく賛成したり、どことなく反対したり、
それでそうやって決めていいんだよな。
なんとなく、焦らずに夢中になっているときは調子がいいから。

いまから高校生の同級生の結婚式2次会に参加してきます。
めくるめく思い出の交錯。たのしみでしかたがない。


今日もよんでくれてありがとうございます。

必要な大事なものだけそろえておけば、
なんとなくで、なるように。

マッシュルーム辞めました。

髪を切った。あまり意味はないんだけれど。

僕はこれといった特徴のない名前らしく、
中学の頃から髪型であだ名を呼ばれるようになっていた。

あるときはブラックジャック。
あるときは鳥の巣。
あるときはきのこ。
さて今度はなんて名付けてくれようか。

自然と、ほんとに自然と大きく環境が変わる節目のときに、
髪型を変えているような気がしてきた。とくに意識はないのだけれど、
振り返ればそんな気がする。

髪型を変えれば環境が変わるのか、環境が変わるから髪型が変わるのか。
よく僕は美容室に通うタイミングを無くしてしまいがちなので、
美容師さんに怒られがち。
ここしばらくは、その都度もとのきのこに戻ってきたわけだ。

すごく新鮮そうな目でじっと顔と地面を見つめて苦笑いで、
「ひとりの毛の量じゃないですね」といわれると、
「ああ、1人分の料金ですいませんでした。ごめんなさい」と言っておく。

いつのまにか、年上のお姉さんではなく、
年下のお姉さんに、髪を切ってもらう歳になっていた。
そういえばすこし複雑。

そんなわけで、lojiで培ったマッシュは終焉を迎えた。
誰かわからんかったらすいません。
「ぼくが、ゆうとです」


今日もよんでくれてありがとうございます。

変わらないために常に変わるのは、
きみとの距離を知っておきたいから。

キックオフ

家の近所の新しいカレー屋さんにいった。

ネパール人の店主がいつも外でビラを配っていて、
美味しそうな気しかしないと気になっていたところ。
テーブルと座敷の席もある少し大きな店舗。

ある夜思い立って、そのカレー屋さんにいこうと。
お店の前まで通りがかったところ、店の半分も電気がついていなくて、
看板もなかにしまわれている。
厨房から漏れるあかりがぼんやり見えるだけ。午後7時半。

そういうことで、なんか特別な日だったんだろうと、
またある日、同じ時間くらいに挑戦。
しかしやはり当たり前のように、そこには店先の看板はなく、
厨房のぼうっとした光しかない。

そういうことで、作戦変更を余儀なくされた。
ランチタイムだ。そうだ、その手があった。
息巻いて今日の真昼、ついに足を踏み入れる僕。

外ではにこやかに店主が風船を片手にビラを配っていた。
暑いのにご苦労様です。
意外にもウエイターさんたちは若い日本人の男性だった。
チキンとキーマの2種を選択しマンゴーラッシーを注文した。

キーマはココナッツがきいていて甘口、
チキンは僕にぴったりの少し辛くて、
2つの選択はなかなか間違いがなっかたと思う。

ナンのおかわりは、きちんと注文してから焼いていて、
やけどするくらい出来立てほやほや。
あれだ、ナンは湯気が出ていないので
熱さが目視できないのが危険ですね。
ちぎったときのなかがすごいのなんの。
それは巨大なのものを2枚食べまして、満腹です。

印象的だったのは、BGMがJーPOP全開だったこと。
おそらくその若い男子諸君たちがDJをしているんだけれど、
「あ、俺この曲あんま好きやうわ」的なノリで
1分13秒くらいで、突然次の曲にスキップしちゃうのはやめてよ。
サビを聞いてもらえなくて、関ジャニ∞が悲しむから。
ドリカムのライブ盤はカレーには合わんとおもうよ。
ドリカムは好きやけど。
でもAKBはカレー食べてるときでもいけたわ。
さすが秋元康、カレーも想定内なのか。

そんなです。


今日もよんでくれてありがとうございます。

懐かしさに食べられてしまう、
新しさなど、いらないというくせにな。

ひととひととひと

Chip Chaplin のライブを見た。
ああ。とてもよかった。

彼らと出会ったのはずいぶん前になる。

たぶん、初めて顔を合わせたのはジャングルでのライブだったと思う。
4人はトランプをしていた。
賑やかでにこやかでおしゃれで仲良しなオタク。
そんなだったと思う。

当時はKyteが唸りをあげていて、もちろんのこと僕も愛聴していた。
嫉妬したり宿望したり。
その話をしていたんだろう、
嶋田くんはその頃から変わらない穏やかな顔して話している。

京都での再会やartyardでの日々を経て、
僕たちの主催するイベントに出演してもらったり共演する機会も増えた。
嶋田兄の感じや臼井くんのお酒に纏わることもすきだし、
彼らには「月に泳ぐ」という曲がある。

それ以上も、それ以下もないという言葉がある。
そのあいだにふつふつと悠然と自然体に立っている、
そういうバンド。
それがChip Chaplinなんんだろうか。

あのステージの上で魅せられるひと、ひと、ひと。
たのしそうなひとを観ているのは限りなくたのしい。
たのしいひとでいないとと、確認したんだ。あそこにいたひとはみーんな。


今日もよんでくれてありがとうございます。

誰にでも好かれる君はいま、
誰にでも誤解されている。

30℃

ラジオがおもしろいたのしい。

ひとが話しているのを聞くのもすきだし、
聞いた話を誰かに受けわたすのもすき。
「深夜の馬鹿力」をまずはPodcastから。
ラジオの王様の言葉の応酬総攻撃具合をたのしんでみて。

あつくなってきました。
夏は夏で季節というのはたぶん、1:5:1:5でやってくる。
大体が夏と冬で出来ている。
なぜか毎年それを忘れたふりをして
ご挨拶とばかりに
今年の夏はどうだ、春はどうだ、とかいっている。
だけどそれも少なくなったよう。


4分割は誰が考えたんだろう。
あまりにも平等に1年を分け与えるにはむつかしいはずなのに。
きっと、夏と冬が、なにかしらの権力を握っていたんだろう。
それともゴマをするのがうまかったんだろうか。
どっちかというと、夏は男性的なイメージ。
冬は女性的な気もするな。色仕掛けだってありだ。

いつから肩身を狭い思いをするようになったんだろう、
春&秋は、その不憫さゆえに、
いろんなところから毎年みまいの言葉が贈られる。
「夏早すぎる」「まだ冬はおわらないのか」
「5月最高気温、、」「3月の雪」

それこそ「ちょうどいい日」なんてのはなかなかない。
1年で10日くらいしかないんじゃない。
「ちょうどいい日」
そうおもうとなかなか厳しい環境ですね、日本てば。


今日もよんでくれてありがとうございます。

あえて言わないつもりで、うまく言えないだけたちのこと。
知らないふりして透かしてみれば。

さみしいと、根っこ。

僕の自分が嫌いなところは
誰かが好きになってくれたりしている。
僕はナスが食べられないんだけれど、それと同じみたい。

悩みってそういうもの。
だいたいが人と人の間に横たわったり飛び石になっている。
密度も間隔も抱きつきやすさも渡りやすさもそれぞれで。
同じものを観ていても、大きさも温度もいつも違う。

楽しいは苦しいを、
苦しいは楽しいをよびよせる。
それは悲しい気もするし、すごくありがたいことだったり。
うら、おもて、でもないし。
みぎ、ひだりでもないのだけれど。
こわくもあり、ゆるせる気もする。

「なんで」と聞いたら、 ひとくちで「なんとなく」というひとがいい。


今日もよんでくれてありがとうございます。
それでもすべての根っこにあるのは「さみしさ」だって。

森にからすはいない。

練乳を何にでもかけるわけじゃない。
というよりすごく限られているなあ。
必要なときに必要なだけと頭ではわかっていることを、
あんまり器用にいかないものばかり。

いろいろ掛け違えてそこへいったわけではなくて、
気付けば、いちばん初めだけがずれていたりするから、
後悔だってするだろう。

だからそれしかないと思ったものほど
無くなったり、とくにどうでもよくなったり、
しまいには嫌いになってしまうことだって。

もしも得意でないことがあったり、
好きでも嫌いでもないものがあったりすれば、
ほんとうは、それを大事にしていないといけないのかな。


今日もよんでいただいてありがとうございます。

楽しそうにしているのは全然悪くはない。
いっつもそういう人に憧れている。

封印されしもの。

お風呂からあがってから、ほかほかを夜の風にあてる。
適当なt-シャツと無印の寝巻きのズボンを履いた。

適当に取り出したt-シャツはすごく派手な柄で
10年前に母親がUNIQLOで買ってきたもの。
これを着て香港に旅行に行った記憶がある。

旅行は半分ツアーガイドが着いてくれるツアーで、
金沢県からきている親娘と僕たちの2組で各地をまわった。
その金沢親娘のお母さんが
「そのt-シャツおしゃれですね」といってくださった。

母親はそれを聞いてどんな顔をしていたんだろう。
当時もちろん思春期の僕は、ばつのわるい顔をしていたにちがいない。
B−Boyみたいなオーバーサイズのt-シャツを身にまとわされた僕は、
狭いバスの片隅の異邦の地で、居場所をなくすことになった。

これがまあ、いいことかわるいことなのか、
トラウマからB−Boyにはなるまいと、そのT-シャツを封印した。
そしていにしえのときを、悠久のときを超えて、いま、
当時、愛されなかったおかげで、10歳をむかえている。

これが今更着てみると意外にしっくりくる。
それほど日焼けもないし、いい感じじゃないかとおもう。
なんかいい。
というより、深夜のこのいい感じのかぜが、
おおよそなんでもしっくり、させてしまうんだろうなあ。
気づいたぞ。。


今日もよんでいただいてありがとうございます。

ちょうどいい日というなら、すこぶるすくない。
ちょうどいい今なら、ただ忘れるほどあるだろうから。

いつものひとでいたい。

改行とか句読点だとか、区切りをつけたいときに、
「いつもの」があればちょうどいい。

いつも行く公園は。
いつも飲むものは。
いつも話すはなしは。
いつも観る映画は。
いつも会うひとは。
いつもLINEするひとは。
いつもつく嘘は。
いつも思い描くことは。
いつものがあれば落ち着く。

なんにでも、どんなジャンルにだって、
お気に入りがあれば、いつでもだらっとできる。
そのあとしゃんとするための、だらっと。
ときどきにやにやもするだろう。
そのあとにらみつけたあと、優しい目をするんだろう。
そういうひと、いる。


今日もよんでくれてありがとうございます。

「話せばわかる」「やればできる」と思考停止してもいい。
それもたまには。たまには。

美食の旅に。

ゴーヤチャンプルーを食べた。
チャンプルーとは「ごちゃ混ぜ」の意。
豆腐とたまごと豚肉とゴーヤがごちゃ混ぜだった。

鍋に滑り込み、焼けゆくなかで彼らは出会うわけだ。
そこでは、いにしえからの人間さまのプロデュース力で、
ベストカップルに仕立ててもらえる。
自分の地元はどうだとか、今年夏はてんで暑くなかったとか、
とくにくだらない話もしている。

「トリコ」もありだなと思う。
僕たちは、ある膨大な組み合わせや分量の差異を、
デタラメにキャッチして、それに得意に名前をつける。
なんでカニを食べようとしたんだろう、とか。
ウニを食べる危機的状況って。なんだろう、とか。
先人の偉大な美食家の影響を受けて、今日も、
にんにくとオリーブオイルと黒胡椒に感謝するべきだろう。

美味しいは不思議。

「苦い」を美味しいという感覚に格上げしましょう、
という会議はいつのまにかどこかで開かれていて。
1杯目のビールが格別になったのはいつからだったのか。

美味しいはむつかしい。
なにはこそあれ、「きぬ」と「もめん」を間違えたのは、
すこし手痛いものでした。ああ。
でも美味しいよ?、たぶん。


今日も読んでもらってありがとうございます。

すきなものを冷めないうちに。
でも、あつあつより、ちょっとぬるめがすきなのは。