あめおんな、あめおとこ。

あめおんな、あめおとこ。

あの人といると何かが起きるんだよなーって
法則が生まれていることってすごくすきだ。
その代表格がいちばん上のことです。

期待とか予想とか決めつけではないはずなんだけど、
そういうそいつにぼくはなりたいなあって。

そういう種類のはなしで、
私の知らない君というか、君の知らない私というか。
あの人いつもにこやかで優しくて… というあの人の、
知らない真剣さ、孤独のときの頑張りとか、
知らないことにしてるぼくはいつもいる。

これって盲目とは違ってて、
すごく自然で正しくて人間ぽくて、
あめおんなとセットにして素敵なことだと思います。
「君といるとき、いっつも雨なんだよなあ」は、
褒めことばということにしましょう。


今日もよんでくれてありがとうございます。
メンバーのひらしまさんは確実にあめおとこです。
日曜日も天気はナナメ予想○

メトロノームもいらないときのこと。

なんか疲れたなーとか、
ちょっと退屈そうな顔してるなーってじぶんのこと。
笑わせてくれたり、夢中にさせてくれる人がいたのが、
高校時代だったんです。

恵まれていたからこそ、
その当時の無い物ねだりは激しいし、
井の中の蛙がこじらせている、
なにかも素敵とは言いがたい。

干渉も感傷もないけれど、
宝箱にしまっておきたいような時間を
箱庭感覚で眺めているのは好きですよね、
たくさんの人が。

お正月にちょっと
懐かしい話をしてぬるま湯につかるのは、
恒例の行事として許しておいて欲しいもの。

そうゆう宝箱の中身の時期には、
孤独でない部分とものすごい孤独と
表裏一体だったはずと思います。
じぶんと戦う必要があったりなかったりを繰り返してた。

ひとりでできることがあるとき。
ひとりでしないといけないとき。
ひとりしかここにはいないとき。

ひとりしごと。

ひとりでもできることがあってラッキーだし、
それは必要だし、過酷だ◯

と、大人になれば誰でも
孤独に頑張って日曜日に漕ぎ出すわけですよね。
いまのところは、いまにみてろよ、と。

ちょっと懐かしい顔を見たりすると、
自分に向かってどうだと
言ってやりたくなる言葉が出てきたりしますよね。

ぼくは自戒を込めてそんなことを書いてみました。


きょうもよんでくれてありがとうございます。
あけおめです、こころから。

もう一度やること、思い出したこと。

変わったり変わらなかったりするものがある。

バンドは解散して、名前を変えてみてゆっくりとしてた。
周りの空気や温度のすべてがなんとなく
過ぎていって知らないものになっていた。

なんで子供の頃は、
すごく退屈で、すごくおもしろかったんだろう。
なんで大人になるには、
退屈を楽しむことができるようになっているんだろう。

ぼくはいつのまにか退屈の歩き方を知ろうしていて、
じぶんはなんだったっけか
わからなくなっていた頃がありました。

ぼくのいた、
その場所の輪郭の外側の周りの空気や温度は
すっかり変わってしまってて。
あの輪郭の内側にはもう戻らないなあ、
勇気以外にもたくさん必要だし、
というような感じで諦めてて。

だけど、3年振りに、
騙しだましスタジオに入ってみてギターを鳴らすと
1秒前に必要じゃなかった
インスピレーションや感動の記憶が
じぶんの心とか脳とかの奥をぐるっとかき混ぜていって
沈殿していた幾つかのものが、
くるくる流れをなしていくのを感じてしまったんです。

1/8にartyard studioでライブをすることが決まったので、
お近くで時間がある方に足を運んでもらいたくて、
いいものを届けるように2人で準備しています。

どうか楽しみにしていてください。

2017年のここから、もうちょっとぼくたちは走り出そうとしています◯


今日も読んでくれてありがとうございます。

変わったり変わらなかったりするものがあることに
焦ったり安心したりするけれど。
そんなくらいには振り回されないように息巻いて、
すすむ。

なまえもしらない。

どんなまちですれ違ったろう。
台風のよる。

気付かないことばかりで、
ちいさくなったこんな夜にしか、
思わないこともある。

いま目の前にいる、あのひとが、
実はかつて、あんなところで繋がっていて、
同じ場所に立って、同じ匂いをかいで、
同じような気持ちで風をきっていた。

そんなあたりまえのことが、さいきん、
すごく特別でいて、ありがとうとおもう。

身動きのとれない台風のよる。
あの場所に行ったら、誰と出会えるのかな。
あの道を通ったら、誰とすれ違えるのかな。

それが積もり積もったいまの居場所。
嫌がって、嬉しがって、ありがたがって、
つながってる。

やっとここにいれるんだ。


今日もよんでくれてありがとうございます。

帰り道にはきをつけて。
傘を閉じて、足元を照らして。

みらいのうた。

カワベユウコ個展 [mirai] がおわった。

公開制作も同時に終了。
これからぼくがさいごの仕上げをするところ。

ぼくはうたうのがすきなので、
miraiの影で曲をかきました。
最終日の真夜中にうたって、ゆうこちゃんが聞いてくれた。

mirai最終日の真夜中にうたった、ボイスメモ


はじめから泣くつもりの映画のなかには
はじめから泣くつもりの主人公がいるような

今日の僕は偽物だよ
どうして誰も探さないの?
今日も君は偽物だよ
どうしてだれも気付かないの?

風の吹かない街にだけ
うたえるうたがある。

はじめから夢のなかで戦っていたのに
はじめから終わりのない現実のはなし。

どうも僕は偽物だよ
どうして誰もまよわないの?
どうも君も偽物だよ
どうしてだれも笑わないの?

うたをうたうときにだけ
吹かない風がある。

ぼくはもう、いかなくちゃ。
ぼくはもう、もどれない。
手に負えないみらいを信じた。

そうだ僕は本物だよ
どうして誰も信じないの?
そうだ君も本物だよ
どうしてだれも気付かないの?

できることをできるだけやれば、
きみにあえる。


今日もよんでくれてありがとうございます。

とにかく、ゆうこちゃんはいい顔で、わらう。
ぼくもそんなふうで、いたい。

みらいのはなし、4。

きょうもゆうこちゃんの筆先をみる。

ぼくはいままで、どれだけの名場面をみてきただろう。
そしてどれくらいそれを、
おいかけていることが、できていただろう。

もう再現できない瞬間はそこらじゅうに転がっている。
それは寂しいし、悲しい気もするから、
ぼくたちはいま、それを保存したりシェアすることで、
いつでもくりかえし見れるし、聞くことができる。

だけど、そうやって切りとったワンシーンをみているとき、
ぼくたちは固まっている。
立ち止まって、その美しさについて語り合っている。
どこかからどこかに、切り離されてしまう。

体験は、これからもずっと変わらないとおもう。
動きまわることに立ち向かって自分も、
きょろきょろしていることなんだ。

失われる美しさというより、
消えていく美しさ。
いつだって見れるよ、のそれとは全然ちがうよね。


今日もよんでくれてありがとうございます。

あちらにこちらに動きまわる筆先を追う。
その動きに、いまよりむかしが溶けている。

そんなみらいのはなし。

みらいのはなし、3。

気付けばハズレのないみらい。

みんなにとって正解もハズレもないのは、
あたりまえのことだけれど。
それって自分にとってでも、そうかもなあ。

宝くじで当たっいても、いなくても、
人生は変わるけれど正解もハズレもない。

どんな環境にじぶんがフィットできるか、
割り切ってつぎの扉をこじあけるのか、
居心地いい、この部屋で過ごすのか。

どれを選んでも、
あそこからハズれて、どこかからは正解の旗があがってしまう。

つめたいように思うけれど、
ぼくは人間がすきで、人間関係が苦手だ。

人間関係で正義になったり悪になったりする。
それがおもしろい人間らしさ、ともおもうけれど、
なんとなく、その恩恵にあずかったことはないからだ。

ぼくは大事そうなものを、ひとのなかにみてきた。
すきだとおもうひとを、ずっとすきでいられるのは、
ほんとうはかんたんなことの気がする。


今日もよんでくれてありがとうございます。

ぼくときみの、あいだのものより、
ぼくときみの、なかにあるもの。

そんなみらいのはなし。

みらいのはなし、2。

いまよりむかし、いまよりみらい。

いつの時代が偉いなんてことは、ないんだけれど。
ついつい、便利や効率にかまけて、
いまが偉いように感じることもある。

ぼくは原始的なことのほうが驚きがおおきい。
蟹は食べ物だとか、海底からウニをとってくるとか、
大陸を見つけるとか、王様の墓を建てるとか。

iphoneもmacも大好きだけれど、
完全にウニを食べたひとのほうが革命家だ。
ぼくはでもそんなにウニが好きってわけでもないんだけれど。

きょうは七夕、
願い事を書こう、のコーナーに願いごとをかいた。
「なつかしい あたらしい じぶん」

なつかしさに廃れる、あたらしさはいらない。だとか、
歴史が尊いわけでも、未来が明るいわけでもない。
もうすこしフラットにじぶんのいる場所をつくれたら、と
いまの願いをかきました。


今日もよんでくれてありがとうございます。

たしかなのは全部、
じぶんのつくるみらい、じぶんがつくれるみらい。
じぶんをみせるみらい。

そんなみらいのはなし。

みらいのはなし1。

カワベユウコ個展 [mirai] に参加している
ぼくのみらいのはなし。

きょうゆうこちゃんと話のなかで、水差しの話をした。
ぼくは小学生のころ、絵がヘタで、
図工の時間がほんとうに嫌だった。

いろをつくるのも、筆に絵の具をのせるのも、
もうその段階でセンスがないから、
見るも絶えない悲しいものができていた。

とくにやるせないのは、
よくわからないままパレットにいろが溢れていて、
それをさらに洗い流したり、またつけたりを繰り返すから、
水差しがすぐに真っ黒になった。

それを手洗い場に流しにいくときのせつなさときたら。
排水溝にまったりとした暗雲みたいな液体が、
流れていきにくそうにしているのを、じっとみた。
そうして一瞬でまた、
またなんにもなかった顔の、黄色の水差しに透明がもどった。

絵のうまい子のパレットは、
部屋の区切りを無視して縦横無尽だった。
そして、水差しはすごい綺麗ないろをしていた。

もちろん、濁っているけれど、
きれいないろ。
あこがれのいろ、だったとおもう。

そんなはなしを、ゆうこちゃんにしてみたら、
「そんなのしらない」だった。
あたりまえというか、そんなの意識なんかしていない。

それがすてきだとおもった。
あこがれって、こういうことだ。

ぼくもしらないうちに、
そういうものを作り出しているかもしれないし、
そうでありたいし、もっと見つけたいし、
いま、そんな場所にいる。


今日もよんでくれてありがとうございます。

あの水差しの水だけで、なにやらすごい絵がかけそうだ。

そんなみらいのはなし。

夏の京都。

京都に行きたい。

そうだ、のフレーズでお馴染みだけど、
夏の京都にはあまり行った記憶がない。

河原町でアイスを食べた、とか、
ライブでライブハウスを巡った、だの
季節にとってはとぼしいものしかない。

夏の京都といえばなんだろう。
やっぱり夏祭りかな。
お手軽な納涼もあるのかな。

でもどうしてそういうイベントごとってどうも苦手だ。
人混みがどうだとか、そういう意識はあまりないのだけれど、
並んだり、待ったりするのがあんまり得意じゃない。

自由に探検探索できる場所とか冒険が好きだ。
ひとりもいいし、だれかをお供につれるのもいい。
でも、自由なぼくについてきてくれる人に限られてしまうけど。

思いもよらないことも起きるし、
そのときその瞬間は、だれも知らないに、出会うことだってある。
そう考えると、独り占めしたいだけか。

春の京都も、秋の京都も、冬の京都も、毎年出かける。
今年は、夏を独り占めしてやることに決めました。
そういう独り占めの記憶が、思い出なのかなあ。


今日もよんでくれてありがとうございます。

「思い出補正」とはいうけれど、
忘れられないものを材料に、できているぼくという。