サイズ感。

じぶんだけの贅沢。
じぶんだけがしっている。

ちょっとしたことだけど、
よさそうなタオルを買ってみる。
そういう自分だけがしっている贅沢。
タクシーをつかう、は程遠い。

みたいなことで、
何日かに1回そのすこし特別なタオルの出番がやってくる。
身の丈にあった特別にすこしつつまれる。
これがほかにない、ぼくのいやしになっている。
ぴったりな特別感。ジャスト。

なんか貧しい気もするけれど、
ぴったりでいることの重要なこと。
自分のサイズをしっていて、
それが生活のパーツになっていたらきもちいい。

ごはんがおいしいなあ、っておもうときは、
いつもすごく充実していて疲れて元気なとき。

そういう意味でもapple musicの快適なこと。
音楽をいつでもコーディネートしてくれる、なかのひと。
これからもよろしくでございます。


今日もよんでくれてありがとうございます。

だれかのプレゼントにまよわないとき。
だれかのサイズを知っているとき。

だけど。

「あればいいね」をあつめたい。

「あればいいね」はあつめてしまう。

「あればいいね」をつくっていたい。

「あればいいね」のひとはすてきだ。

「あればいいね」な話をしたがる。

「あればいいね」に向かってすすむ。


「なんとか」だけど「なんとか」だよね。
みたいなことを挟ませない、
清々しい、それ以外ありえないものがある。

それはぼくにとってじゃがいもだったり。
糸井重里だったり。
白シャツだったりするわけだ。


今日もよんでくれてありがとうございます。

悩みは尽きないものだけれど、
先にすすんでいるのも確かで。
ここにいるためなのも確かだ。

説明文。

あるくのもすきだ。

あるいて考えごとをするのがすきだ。
小学校のころ「歩行と思索」という説明文をよんだ。
そのころはなんのことかわからなかったけど、
あれはいつでも立ちもどっていい、こたえな気がする。

もちろん科学的に研究され、ちゃんと立証されている。
「ジョブズはよく歩く」をおまじないにして、
たくさん歩かされている、部下もたくさんいるだろうけど。

歩く、という行為そのものが、
考える、を刺激させているらしい。
たとえば、
だらだらとたいくつにぐるぐると家の中を歩いているだけで、
それは自然にクリエイティブな脳の状態になるらしい。

ぼくはあるいていると、
解決していく方向に向かっている気がする。
すすんでいる、ということが催眠になっているんだと思う。

からだをすすめていれば、あたまもすすむ。
なんかあたりまえのような発見ってよくあるよね。


今日もよんでくれてありがとうございます。

現実じゃないような現実を夢みていたら、
なにをすればいいか決めやすい。

三球三振。

ちょっとしたことで失敗したり、ダメになったり、
悪いイメージの残像があるうちは、
自分の力も形を忘れてなかなかうまくいくこともない。

なにごともなく割り切ってみせて、
きのうの話にできるのはすごいなあ。

でもそんなひとも、
傍にそれを置き去りにしているわけじゃなくて、
ちゃんと背負っているのも、みのがせない。

平気で本気になりたい。

それほど限界まで追い込まれているわけでもないのに、
そわそわしたり、落ち着かないときがある。
そんなじぶんに焦って冷めて、やる気がでないときも。

たぶんそういうときに重要だというなら、
やるかやられるか、を自分自身に迫ることだとおもう。

ぼくの代わりは、無限にあって、
ぼくはそれに比べられることはないからだ。
なんのために自分がひとりでいるのかって、かんがえてみる。


今日もよんでくれてありがとうございます。

どうやったっていつもひとりだけれど、
どうしてもひとりぼっちにはなれない。

ミライをつくる手。

じゆうなひと。

きのう、ふじたゆかりのうたを聴いたあとは、
いおかゆうみに会いにいった。
うたは最後の合唱しかきけなかったけど。

それで、なんにんかのひとと無駄ばなしをした。
なんの目的も結果もないくだらないはなし。

ほんとうは相談でもないけれど、
ちょっと真面目な話をしてもいいのに、
そんなことはしない。

つまらないことをしているほうが、
誰かが考えていることがわかる。
元気なのかどうかとか、充実の目をしているとか。

きょうはカワベユウコちゃんにあった、
来週からの個展の打ち合わせだった。

おないどしのゆうこちゃんの「ミライ」は、
どうなっていくんだろう。
ぼくは、彼女とどこか遠く離れてしまうのかな。

ゆうこちゃんももちろんそうだけど、
ぼくのまわりには、
つめたいいろをしている、あったかいものをつくる人がおおい。
それで、もれなく全員がすきだ。

彼女の手から、なんにもない白の場所にいきものがうまれる。
うごかないけれど、温度がある。
とってもすてきだ。

誘ってくれてありがたい。


今日もよんでくれてありがとうございます。

ぼくは彼女のキャンパスをつくることになりました。
ほんとうの本気を目指して、もえるぜ。

クツを揃えて。

ふじたゆかりとイワクニマユさんの
「クツを揃えて」を観にいった。

アオツキ書房という
堀江の本とレコードのお店の3階で、
2人のピアノと、声が響いてた。

いつものような毎日になにか添えるとしたら、
音楽がぴったりだ。
いつだってそうおもうことを、また確認させられた。

ぼくが生きていることなんて夢みたいだ。
たぶん、夢なんだろう。
ふわっとしていて、
思うようになんかいかなくて、
とてつもない理不尽があって、
ふだん話せないような人に話して、
誰にもすぐ忘れられるようなものだろう。

そうなふうなことを、
彼女の歌を聴いて、いつでもおもう。

だけど、夢は続いているんだ。
まだまだ、続くのかなあ。
それはそれで居心地いいよ。夢。

「たいせつなものなんてないといってほしい」

「あしたせかいがおわるらしい」

言葉はほんとにおそろしい。
辞書にはのってない意味ばかりだ。
ひとりひとりが違うことを、とらえてしまう。

今日もよんでくれてありがとうございます。

あなたはほんとうに生きているのか、
喉のところに、シリアスにぐっと突き付けてくる。
でも、表情は和らいで冗談だよって言ってくる。
そういう優しい、うたをうたっていた。

たちどまる。

現在地をしっていたい。

いつのまにかそこにいた。
無力な子供時代は、親の連れて行くままに、
あちらこちらや、そこにとどまっていたりしている。
だけど、大人のいまはちがう。

自分で好きなように行き先は決定できるし、
地下鉄の波に自由に逆らってみるのもいい、
いなくなるのも、また戻ってくることもできる。

自由。

だからこそ、いま自分のいる場所でたのしんでいたい。
いまいる場所で、いまいる自分をフィットさせたい。
無理になったら、ほかを当たるよって。
その脚も、かるいほうがいいいなあ。

いまの自分の位置をちゃんとわかっていたら、どうとでもなるとおもう。
どこに美味しい日替わりのお店があって、
どこにクリーニング屋があって、
どこに退屈させない本屋があって。
落ち着く場所も、すぐみつかる。

そんなふうに、自分に敏感でいたいし、
そんなふうに、相手に鈍感で優しくありたい。


今日もよんでくれてありがとうございます。

生まれや現実はかわらない。
かわらないことは、確かなもの。
確かなことは、しっておきたい。

うつくしくなりたい。

「どぶねずみみたいにうつくしくなりたい」
それってすごくほんとうだ。

いつもそうだけど
甲子園の両チームも、
雑草も桜も、
アンパンマンとバイキンマンでさえ、
「どぶねずみみたいにうつくしくなりたい」なんだ。

それで、勝ったの?
と、聞きたい場面はたくさんある。
でもそうじゃないよね。

それと、
なにかを決意したが最後、
なにかと戦う決意をしたが最後、
うつくしくもあり、どぶねずみなんだ。

ぼくのだいすきなひとは嫌われていて、
ぼくの大嫌いなひとは愛し合う。

人間ぽくていいよね。
でもあんまりそれを意識しないでおくと、こわいなあ。
ときどきみつけたとき、ゾワッてなる。
怒りは、連鎖させちゃいけない、わかっているのに。


今日もよんでくれてありがとうございます。

たたかったあとの、きみがともだち。

海にいきたい。

いますぐにでも。

おとなになるのはすごいことだ。
そんなことをかんたんに叶えてしまうから。
それを、江國香織のエッセイで読んだときにおもい描いていた。

海をみてあれを思いたい。
「なんてじぶんはひとりぼっちなんだ」
「なんてじぶんはちっぽけなんだ」
「なんてじぶんはこんなに特別で普通なんだろう」

もう18ではないし、そんなことは思わない。
思えない。

じゃあ、海をみてなにを思うんだろう。
それが知りたくなった。

ほんとうにひとりみたいだと思うときもあれば、
いつだってぼくは、ほとんどのひとに、
どこにでもある大衆だと気付かれている。

ビジネスではどっちらも重要だっていう。
ニッチに、そしてビッグデータこんにちはってね。

うまくはいえないけれど。
ぼくはさいきん、
いおかゆうみ」のベストアルバムの制作をしていた。
彼女のうたがすきだ。

どこにでもある、そこにしかない音楽。
そんなありきたりなコピーをかきたくなるような、
居心地のいい、痛みのあるうたをうたってる。

今週末に発売のイベントがあるらしい。
そんな日に、すこしでも関われてうれしい。

CDを手にとるひとの顔はぼくには浮かびもしないけれど、
それは紛れもなく、
ふつうで、とくべつな、かけがえのないことなんだ。


今日もよんでくれてありがとうございます。

ひとも、ことばも、うたも。
そのひとの為だけの意味になれたから、
人間はあいかわらずなんだ。

ひさしぶり。

場所との再開もいとおしい。

数年脚を運んでいなかったアメ村の本屋さんに行った。
とくに理由もなくなんとなくふらふらとすいこまれるように。

アメ村の端っこの、
長堀通りの近くのパチンコ屋さんの上にその本屋はある。
最後に来たのは、airlieの誕生日だったとおもう。

はじめて来たときから店の雰囲気がすきで、
什器の感じの古めかしさとか、
ジャンルが記入されてるサインのフォントとかがきもちいい。
もちろん置いているものも選ばれたものだけが並んでいる。

しばらく来てなかったのもあってレイアウトが変わっていて、
コミックコーナーが縮小されていて、洋書が増えていた。
洋書といっても、それっぽいペーパーパックの分厚い小説でなくて、
向こうの街で平積みされている、アート系の雑誌とかがおおい。

四方の壁に本やら雑誌やらが隙間なく厳選され詰め込まれていて、
まんなかの開けたスペースに雑貨が展開してある。
みたことない、持って帰りたいものがたくさんある。

大阪は屈強な大きくてなんでも知り尽くす本屋もあるけれど、
網羅することをやめて、選んだなかから選べる本屋もある。
正直、どっちも好きだ。

ただこういう本屋さんは、探すこっちも真剣にならされる。
ちゃんと理由があるんだ。
それを知ってほしい理由。


今日もよんでくれてありがとうございます。

ものを買うなら、つくったひと、ならべるひと、
どっちの顔も浮かぶようなものを集めていたい。